30年と半年ぐらい前だった。いつもは沈着冷静な萩原朔美が、いきなり「雑誌をつくろう!」と、キラキラ目で上ずった声をあげた。それがはじまりだった。海外にあるようなアートマガジンを日本でも出そうよ、と言いだしたのである。ニューヨークのアート情報誌「ヴィレッジボイス」あたりをイメージしていたのだろう。当時萩原は、米国国務省の招待を受けて、ニューヨークのアート・シーンをつぶさに見聞してきたばかりだった。といっても彼が最も注目したのは、国務省の担当官が推奨するアート観光スポットではなく、郊外の農場で共同生活をしながらビデオをつくり続けているグループだったり、ヒッピーカルチュアだった。そこではバクミンスター・フラーが提唱する「宇宙船地球号」の影響を色濃く宿した「ホールアースカタログ」がベストセラーとなっていた。これは「宇宙船地球号」の乗組員であるわれわれひとりひとりが、サバイバルするためのカタログである。29歳のヒッピー、スチュアート・ブランドが発想したこのカタログは、これまでのように消費をつくりだすカタログではなく、人間が生きるために必要なあらゆる情報を網羅したサバイバルマニュアルというべきものだった。萩原の発想の原点にはこれがあったのだろう。時を同じくして榎本了壱は、当時暮らしていたフランス人の彼女と、一年間のフランス滞在を終えて戻ったばかりだった。このふたりが見聞した世界のアート・シーンを、いち早く伝えるためのアート・サバイバルマニュアルというあたりが当初のねらいだったのである。仲間はほかに、このコラムの5回目に書いた代官山「サガミマンション」のメンバー、萩原、榎本に加えて、安藤紘平と写真家の山崎博のファミリーグループ。これにオブザーバーのようなかたちでぼくが加わった。雑誌の編集実務経験があるニンゲンは一人も居ない。そこで、ぼくが原稿を寄せていた「フィルムアート社」編集部の高橋克巳に声をかけて、フィルムアート社とかけ持ちで担当してもらうこととなった。フィルムアート社は、かつて「季刊FILM」という映画の雑誌を出版していて、そのデザインを榎本了壱の師匠にあたる粟津潔が担当していたことから、榎本も高橋さんとは仕事上の知りあいだったのだ。榎本は、グラフィックデザイナーとして数多くの出版にたずさわっていたが、編集者の経験を持っているわけではなかった。フランス語ぺらぺらのダンディなシティボーイ安藤紘平は、当時はTBSでカラー特殊技術を担当していて、夜も昼もない生活が日常だった。実務を手伝う余裕などあるわけがなかったし、山崎博は奥さんが家計を支えていて、「ウチのダンナがかわなかさんがとつきあうようになってから映画をつくるようになって、オカネがかかって困るのよねぇ」と、あからさまに文句をつけられていた。一文にもならない仕事を頼める雰囲気ではなかったのだ。ぼくはといえば「映画評論」で原稿取りの経験はあるけれど、当時は日本の実験映画をなんとか世に出そうと夢中になっていた。専従などとうてい出来なかったし、実務を手伝うといっても、出張校正で店屋物を食べる程度の役にしか立たなかったろう。けれども、そんな条件でスタートしてしまうところが若さだったのだろうか。ただちにプレゼンテーション用の見本づくりがはじまった。暫定編集部は、梅ヶ丘にあった萩原の自宅の庭に建てられたプレハブの二階家。母屋とは別に、萩原の勉強部屋として建てられたものだったが、そこを編集部にして、若いエンジンが唸りをあげたのだった。動き始めると、すべての実務は榎本にかかってしまう。多忙をきわめる榎本のために、通い慣れた神保町の古書店をのぞいて、芸術・文化ならびに造本やデザイン関係のさまざまな資料を漁り、梅ヶ丘のエンジンルームに届けるのが日課となった。最初に立ち上げたのはプレゼンテーション用の企画冊子だった。これを持って萩原朔美は、版元としてあたりをつけていたパルコの増田通二専務と折衝を開始する。増田専務と萩原朔美の攻防にかんしては、さきごろ生誕30周年を記念して復刊した「ビックリハウス」131号に掲載された榎本了壱の文章に詳しい。固唾をの呑んで見守る仲間の元に、あっけないほど簡単に企画が通ったという報せが入り、それに勢いづけられるように本格的な雑誌づくりが開始された。萩原の2度目の嫁、伊藤ノブが編集に加わったのはこのころだろうか。石黒教子と石渡久美子は、プレゼンテーション用の創刊号のときはすでに居たのだろうか?このあたりの記憶はどうも曖昧である。ともかく、そうして完成した最初の「ビックリハウス」は、しかしプレゼンテーションであっさりボツになってしまった。あまりにもアートに傾きすぎていたのだろうか。アートマガジンならば他にもある、と創刊号をボツにした増田専務はエラかった。そういえば、あの幻の創刊号はどこにあるのだろう…。実務は手伝えなかったが、ぼくは創刊時からいろんな名前で原稿を書かせてもらった。当時のバックナンバーを引っ張りだしてみると、名前はまったく記憶にないけれど、これはたしかにぼくが書いたものだ、という文章がずいぶんあった。映画紹介欄では、恩地美輝(逆に読むとテレビジョン)名義で、長く連載させてもらったし、一年間書いたエッセー「猫日記」(これはかわなかのぶひろ名義)が、連載終了後ぼくの初のエッセー集として出版されたことも忘れ難い。そしてなにより、創刊半年前の、「自分たちの情報を自分たちで発信する」という情熱に突き動かされた、目も眩むような日々は、30年と半年過ぎた今も胸を熱くする。このときの「やればできるのだ」という経験が、その後「月刊イメージフォーラム」を創刊し、渋谷に「シアターイメージフォーラム」をつくらせた遠因にもなっているのだから、ぼくにとって「ビックリハウス」は“運命”というといささかオーバーかも知れないけれど、じつに不思議な因縁といえよう。さきの「ビックリハウス大パーティ」で、創刊時の編集長だった萩原朔美は、ビックリハウス周辺のひとびとはみんな有名人になった。とつくづく述懐していたが、ちなみに萩原は多摩美術大学教授。榎本は京都造形芸術大学客員教授。安藤紘平は早稲田大学大学院教授。山崎博は東北芸術工科大学教授と、なぜかみんな教授になっている。これまたじつに不思議な因縁だ。
「ビックリハウス大パーティ」の余韻にひたりつつ。なお、迫力のイラストは、あえて、原寸大のままにしました。
縮小して送ればよかった。恥ずかしいー。今回はマウスでかいたから、線とかいい加減なのよね。でも、昔の増田さんが画面に降りてくれたからね。自分で懐かしくなって笑っちゃった。ロン毛っぽい時あったのよ、確かに。
イノリンさま●とってもよござんすよ…。なぜならば、他に同じようなものがない。と、言うことが嬉しかったよ!平野さまyumirinとの家庭団欒を犠牲にさせたようで、こころは多少痛みますが、いつもいつもありがとうございます。
「いきなり 雑誌をつくろう! と、キラキラ目で上ずった声をあげた。」なーんていいですね。なにか 始める時ってわくわくしますよね。その気持が 伝わりました。まんまも 作品製作 やるぞ!
まんまさま●あなたのキラキラ目はいつも拝見しております。今年こそ、山形を超える作品を愉しみにしてますぜ。
今より 明日は もっと!と思いますが。山形を越える作品かあ。やっぱり 海外に行きたいですね。作品で 海外に 行きたい。です。
は、 かわなか先生は ないでしょうねー(やきもち)。ほとんど 行っちゃったでしょ。うらやましいー。萩原先生も ニューヨークか。皆GGのまわりの人達は 実績を積み ともに 向上しているんですね。「やればできるのだ」、、、、、、、はい。
私も行ったことがないので、一度は言ってみたい都市です。巴里もだな。アメリカでは、アトランタ、ロサンゼルス、ラスベガスは仕事で行ったので、次に行くとしたら遊びでいきたいなぁ、と、思っています。
まんまの 一番好きな 土地です。でも あまりつかむものがなく 帰ってきてしまい。大好きな おじいさんの居る、苦い思い出のある土地です。かわなか先生は 何度くらい行ったのですか?
行くときはいつも仕事で、しかもケチケチ旅行。一度ぐらいは観光で行ってみたいよなぁ…。
やっぱりー。仕事で ニューヨークなんて。いいな。まんまは 仕事にしたい 兼 観光でした。次は 完全に仕事で行きたい。ケチケチ旅行とは なにも 食べに行ったりしなかったのですね。それは 同じですが。羨ましい。美術館とかも あまり巡ってないのですか?どのような仕事で ニューヨークへ 行ったのですか?聞きたい!
俺節!が見れません(泣)!
まんまさま●ぼくの所為ではないけれど、なぜか消えてしまったんですね。これにかんしては、ぼくたちは医者のいいなりと同じで、診断はできません。三遊亭あし歌が気づいてくれるまでは、どうしようもないんですね…。悪しからず。
今 作品の製作で 忙しいそうで、ここも 当分このままなのかなあ。俺節もみれないし 日記は お忙しくて無理の様子。さびしい。。。。。。作品完成、楽しみにしています。あー 今追い込みで それどころではないか。。。。
月曜日の所見て かなり笑っちゃいました。皆 またBHAの方々は 新宿の上映へ そろって見に行くのでしょうか。羨ましいなあ。まんまは 次の機会に 必ず見ます。
みなさま「かわごち」長らく休んでいましたが、書こうと思わぬ日は一日としてなかったんです。しっかし、自分のサイトの更新に追われて、気になりながらもずるずるサボってしまったのが実状でした。ようやくサイトを閉じたんで、ここで再開します。よろしくねっ!…。
見ました。次号楽しみにしていますー
突然すみません(^。^;)トリオザパンチについてもっと知りたいのですが、身の回りに知ってる人がいなくて…。陳さんには1度深夜+1でお会いしたことがあります。二瓶十久也について調べています。どんな人だったか、とか・・・。何でもいいので教えて欲しいです。私は生き別れた娘です。戸籍でもう死んだということはわかったのですが、どんな人物だったのかとか、性格とか知りたいんです。突然ですみません。もし時間がありましたらよろしくお願いします。
●二瓶さまこのところ身辺ばたばたで更新が滞っているばかりか、ここを覗くのも久方ぶりというありさま。ごめん!さて、二瓶十久也さんというのは、初期「トリオ・ザ・パンチ」の二瓶十久夫さんと思いますが、残念ながらぼくには記憶の彼方になってしまいました。内藤陳さんなら詳しくご存知と思います。しかし、陳さんとはすでに話されたんですね。さきごろ「新宿文化センター」のステージで「トリオ・ザ・パンチ」21世紀バージョンの公演があったんですが、ぼくは時間がとれず見ることができませんでした。26日に「深夜+1」でその時のステージ写真を見せてもらったのですが…。役に立たなくてゴメンナサイ。詳しく知っている方に出会えるといいですね。●平野さま↑の件、連絡ありがとうございます。2月一杯は身動き出来ませんが、3月には飲りましょう…。
かわなかさん、お忙しい中、ありがとうございました。3月ですね、楽しみにしておりますが、まずは、お身体お大事にて。
余談ですが、先日掲載されたマンガ「取締役島耕作」の最終回に「深夜+1」とおぼしき店と、陳さんとおぼしきマスターが登場しています。
今朝未明に入ったニュースですが、パルコ元会長の増田通二さんは21日にお亡くなりになったとのことです。81歳、急性心不全とのことです。ご冥福をお祈りいたします。私にとっては、「ビックリハウス大パーティ」が最初で最後の増田さんのお姿でした。
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